今日のプロ野球について

 今日はJsportsで中日戦が見られないので、オリックス戦を見た。中5日でエース山本が登板。マツダの試合も放送されていたが、やはりNPBナンバーワン投手が見たかった。前回登板は味方のエラーもあり、自責点1ながらも開幕を勝利で飾ることはできなかった。今日はショートが安達だからショート前に転がっても安心だね。
 昨日オリックス打線はソフトバンク大竹から大量得点。先発の増井の好投もあり、ホームでの勝利を掴んだ。大竹の後のソフトバンクのピッチャーからは得点できていなかったのは残念だったけれど、吉田正は今日のソフトバンクの先発武田との対戦成績はいいはずなので期待できた。
 初回の山本はあっさり3人を抑えてベンチに帰った。お風呂が沸いたのでここでテレビを消す。テレビの前に戻ってくると4回の裏だった。なんとオリックスが初回に1点を取っていた。山本はもちろんソフトバンクに得点を許していなかった。
 7回の山本のピッチングは圧巻だった。4番からの攻撃を三者三振!
 8回には味方の追加点をもらい、9回のマウンドに上がった。100球以上投げているのに、衰えることのない球威。簡単に3人を打ち取り試合終了。中5日なのに疲労を感じさせない素晴らしい内容だった。ソフトバンク打線に許した安打は2本だけ。一度も得点圏にランナーを進めさせなかった。ソフトバンクの武田も1回と2回は20球以上投げたが、その後のイニングは球数を抑え、いいピッチングをしていたと思う。山本と投げ合っていなければ、今日の勝利投手になれていたかもしれない。ソフトバンクホークスの強力な打者でさえも山本に翻弄されてしまうとは……。山本の投げる球はどれも完成されている。変化球がスパスパ低めに決まるのを見るのは本当に気持ちがいい。
 何回の出来事か忘れたが、山本が飛んできたボールを自身でキャッチし、ファーストに投げる場面があった。アウトを取れて笑みを溢していた。その笑顔を見た解説の弓岡さんが「爽やかですね」と言っていた。山本は不運が重なり、虚無の表情をしているイメージが強かったから、今日は笑顔を見られて本当によかった。
 今日は中嶋監督のリクエストが2回あってどちらも成功。ちょっと今日の塁審は……。1度目のモヤの足がベースから離れていた判定の時は、中嶋監督のリクエストのサインがキレ気味で笑っちゃった。
 試合が終わってチャンネルを変えたら丁度、西川と大山が衝突したシーンが流れていてびっくり。どちらも何ともないといいな。というかなんで大山はファーストを守っているんだ?
 オリックスの中継時に画面に出ていた途中経過では中日が勝っていたのに、スポナビ開いたら負けてて( ' - ' )←この顔になっちゃったよね。京田トンネルしたんだ……。悲しいけれど、現状、守備力でスタメン勝ち取っているようなものだから、こういうエラーがあるなら他の打てる選手がショートに入った方がチームが勝てるんじゃないかと思っちゃうよ。京田の守備に助けられたこともたくさんあるけれど、「守備の人」という印象があるから、ちょっとの失策でもガッカリしてしまう。でも、体力はすごくあるみたいだから、他の選手が疲れてくる夏以降に輝くんじゃないかと思う。根尾はいつまでレフトスタメンでいられるのかな。昨日タイムリー打ってたけれど、そりゃあ5試合も使われれば打つだろう。他の選手だって5試合あれば結果を出すかもしれない。根尾は2軍で無双していたわけでもないのに1軍でチャンスをたくさん貰えるのは、ドラ1だからなのか。そうだとしたら1軍でヒット打って年俸下げられた石川は何なんだ。まあ根尾は昨シーズンよりは大分打てそうな雰囲気が感じられるから、このまま試合に出し続けて、実戦の中で打撃を磨いていけば、本当に頼れる打者になるのかもしれない。甲子園のスターの活躍はプロ野球人気にも影響を与えるだろうし、真面目で努力家な根尾はきっと結果を出すだろう。岡林は開幕1軍を掴んだけれど、全然使われないね。代走は高松と滝野、守備固めは武田が務めるから、使いどころがない。いくら才能があるといえども、いきなり代打で結果出せと言うのは酷だろう。岡林も何試合かスタメンで出られればいいのだけれど。このままずっと岡林をベンチに置いているのはもったいない。与田監督は「代打三ツ間」の印象が強すぎるけれど、本当はとても優秀な監督だ(と私は信じている)から、与田監督で優勝できないのなら、フロントが姿勢を変えない限り優勝は難しいと思う。
 今日こそ三浦監督就任初勝利か!?と思ったら11-11でσ(^_^;)?←この顔になってしまった。DeNAもヤクルトも守備がおもしろいことになってますね……。牧、すごく打つわね。セの新人王は栗林か牧なのでは?まだ始まったばかりだから、これから新しい選手がたくさん出てくるかもしれないけれど。
 明日の予告先発、輝星だから札ドの試合見ようかな。パ・リーグライブ、本当にありがたい。セ・リーグの試合も全部見られたらいいのに。

私ちゃんのにこにこ読書日記『コスモポリタンズ』

 久しぶりにモームを読んだ。最近ずっと疲れていて元気がないので、読むなら明るくておもしろい話がいいと思っていたが、未読の本の中にあるのは陰鬱な感じのする小説ばかりだ。というか、小説を読んで「おもしれ~!!」と思えたのは中学生くらいまでだった気がする。いわゆる名作と呼ばれる小説を読むようになってからは、「おもしろい……(眼鏡クイ)」みたいな感じ。それでもおもしろいと思えるならまだいい方で、「この意味不明でつまらない話が名作なんだ……」としか思えない作品ばかりだった。もちろん、私の読解力と感性が未熟だからそう感じるのだろうけれど。でもモームの作品はそれなりに読んだけれど、「つまらない」とは思ったことがない。「おもしれ~!!」というほどでもないけれど、たまにニヤニヤしてしまうくらいにはおもしろい。まあ、モームは、文学研究においてはヴァージニア・ウルフジェイムズ・ジョイスほど重要視されているわけではないみたいなのだが。未読の山の中にはモームの作品も3冊あった。好物は最後に食べるタイプなので、モームの作品に関しては敢えて読まずにいた。でも今回は特別にそのうちの1冊を読んだ。

 『コスモポリタンズ』は掌編小説集だ。モームコスモポリタン誌のために書いた30の小品から成る。私は小説は300~500ページ程度の長さが一番好きだ。短い作品はあまり読みたくない。というのも、私は70ページほど読んでやっと物語の世界に入っていけるようになるのだが、短編小説は何が何だか分からないうちに読み終わってしまうからだ。日本の作家でいうと、芥川龍之介志賀直哉は苦手だ。志賀直哉の文体は好きだけれど。海外の作家だとポーが苦手。短い作品を読んで「これいいね!」と思えたのはO・ヘンリーとジェフリー・アーチャーを読んだ時だけかもしれない。読書が苦手な人に短編集を薦める人が多いけれど、私に関しては『ジャン・クリストフ』でも薦められた方が、まだ読書のおもしろさを見出せる気がする。

 『コスモポリタンズ』の中には、既に岩波のモーム短編集で読んだ作品もいくつかあったが、やはり重複しているだけあって、おもしろい。短編は、オチがない(ように思ってしまう)作品が多い(気がする)が、モームはしっかりオチを書いている場合が多いので、読後にイライラすることがない。今回初めて読んだ作品のなかで一番気に入ったのは、と書こうとしてもう一度パラパラと読み返してみたのだが、ひとつに絞れない。しいて挙げるのなら『ルイーズ』だろうか。これが一番モームらしさが出ている気がする。モームはむかつく女を描写するのが本当に上手い。

 解説を読んだところ、『コスモポリタン』の編集長は雑誌にモームの作品を載せるにあたって、「左右見開き2ページにぴったり収めること」という条件を課したらしいのだが、この難しい条件を守りつつ、とてもおもしろいものを書き上げたモーム先生、すごい!

 実は本なんか読んでいる場合ではなく、やるべきことがたくさんあるのだけれど、本当に日々を無為に過ごすよりはマシよねという精神で毎日本を読んで誤魔化している。さて、次は何を読もうか。もうこの頃は先延ばしに対する罪の意識とか焦りすら感じなくなって、締め切りに間に合わなくてもそれはその時の私がどうにかするでしょという舐め腐った態度で生きている。

 もっと書きたいことがあるけれど、元気がないから今日はもう寝る。

せめてうんちして帰ろう

 3ヶ月ぶりに診察を受けた。久しぶりに病院に来たら、自動会計機が設置されていた。でも従来の会計窓口もそのままあるらしい。「調子はどうですか」と聞かれても、どう答えればいいのか分からない。それでもとにかく元気がないことを伝えたけれど、医者は話を聞いて、勝手に次回の予約を入れただけ。私のおかあさんが薬を飲ませたくないと言ったから、私には薬処方できないんだって。私、もうとっくに大人だし、病院代も自分で捻出しているのに、治療に親の意思が介在するんだね。本当は医者も私が病気だとは思っていないから、薬を出さないのかもしれない。私は病気ではなくただの甘え。私が感じる不安や苦しみは偽物。なんで50分待った末の5分の診察に1500円払って、こんな打ちのめされたような気持ちになってんのよ……。時間とお金の無駄じゃん。だから、トイレででっかいうんちした。私はでっかいうんちするために病院に来ました!来たときに見た自動会計機使ってみたいな~と思いながら40分待ったけれど、請求書窓口に呼ばれないので諦めて病院を出た。こういう時は後日家に請求書が送られてくるはず。カルテ窓口で係の人に何か言われたけれど、既に1回聞き返していたので、2回も聞き返すのもな……と思ってテキトーに返事しちゃったんだけれど、その時にたぶん会計のこと言われてたのかな。隣の係の人の声はしっかり聞き取れたし、私の前に並んでいた人もその係の人に聞き返していたから、私は悪くない。人のせいにする。マスクしてるし、ビニールシートで隔てられているから、通常よりも声を出してもらわないと聞き取りづらいんだよ。家に帰って母親に病院のことを聞かれたくなかったから、真っ直ぐ帰れば40分のところを遠回りして、3時間ちょっとかけて帰った。疲れた。
 スマホ見るのやめたから、くだらないことで疲弊しなくて済むようになるといいな。本当に切り捨てたいのはAの要素であるBなんだけれど、Bだけを上手いこと切り捨てられないから、Aごと壊す、という方法しか取れないから、大切なものを何度も失った気がする。インターネットには基本的にひどい人間しかいないということを学習した。いい人そうに見えても、私を馬鹿にして笑いたいだけか、搾取して笑いたいだけ。ごく稀に本当にいい人もいるけれど、そういう人は私のクソっぷりを早々に察知して離れていく。これだけ痛い目を見てやっと気づいたけれど、これからも同じようなことを繰り返していくのかもしれない。
 異世界転生モノってどうして流行っているんだろう。私は死んだら死んだままでいいよ。どうせ設定モリモリで転生できるんだったら異世界なんかじゃなくて、この世界でやり直したくない?まあ、私は高スペックに生まれ変われるとしても、やっぱり人生なんか御免だ。だって、家族とか友達(いないけど)とかが死ぬことの恐怖は、どんなに見た目がよくて頭脳や身体能力が優れていても、必ず襲ってくるじゃん。負の感情を認識しないチート能力が付与されるなら、転生もアリなのか?
 はあー。私の口座にいきなり10億振り込まれてないかなー。死にたいと思っている貧乏な人間が10億を手にしたらどうするのか観察したい大富豪がいたら私にメールしてください。
 取り留めのない頭の悪い文章をまた書いてしまった。今日こそはしっかり眠れるといいなあ。

私ちゃんのにこにこ読書日記『素粒子』

 2月はウエルベックを読もうと思っていたけれど、結局1冊も読むことなく終わった。そもそも読書自体ほとんどしなかった。何していたんだろうね。

 去年の夏に『闘争領域の拡大』を読んで、その時は特別おもしろいとは思わなかった気がする。その後何があったかもう思い出せない(1か月前のことなのに!)けれど、他の作品も読みたくなって、ウエルベックの文庫化されている小説を買い集めた。日本では『素粒子』が先に出版されたみたいだけれど、偶然『闘争領域の拡大』を先に読んでいたので、フランスで出版された順番に読むことにした。

 アニックが自殺した理由が分からなかった。それから375ページの「射精する間際に、配偶子が融合し、やがてただちに最初の細胞分裂が生じる様がありありと脳裏に浮かんだ。それはいわば前方への退却、ささやかな自殺のようなものだった。」という文章の意味が分からなかった。他にも分からないところはあったはずだけれど、この2つはページをめくっても頭にこびりついていた。

 この作品に対する感想はない。というか今までも本を読んだって大した感想はなかった。大学にいたとき、リアクションペーパーを提出する授業があったけれど、感想なんてないから、授業内容に関する質問ばかり書き散らして誤魔化していたことを思い出した。内容の乏しいものを提出した場合、出席とは見なさないと先生は言っていたけれど、幸い出席点はちゃんとついた。秀才でも真面目でもないけれど、馬鹿だと思われるのは嫌だったから、どうにか誤魔化していたんだと思う。ウエルベックはカルト的な人気を集める作家らしいね。パラニュークの『ファイト・クラブ』(これもカルト的人気を誇るよね。映画の方が有名だけれど)を読んだときもそうだったのだけれど、なんか違うなって思っちゃう。社会、世間、大衆……そういうものには馴染めないけれど、一部の人にはウケているものなら自分にも刺さるかもしれないと期待して試してみる。私には響かない。勝手な疎外感を覚える。私の人生もこれと同じ構造?

 馬鹿のくせにプライドが高くて、他者を見下してばかり。頭のいい人に憧れてそれっぽいことをしてみるけれど、まったく擬態出来ていなくて、頭のいい人たちの仲間にはなれない。自分は馬鹿であることを認識できているつもりになっているけれど、結局本当に馬鹿だとは思っていない。だから、また誰かを見下す。衒学という言葉があるけれど、私にはひけらかすほどの知識も身についていない。知識だとか教養だとかに憧れているという点においてはスノッブと言える。読書をしているのもそれが最も簡単な頭のいい人っぽい行為だからなんだろうね。でも学術的な本は全く読めないから、小説ばかり。ちっぽけな抵抗として文学史で習ったような作品を主に読むことにしている。それもページを最後までめくるという行為を以てして「読んだ」ということにしているだけ。でも、もう頭のいい人ぶる必要はない。誰も私を見ていないんだから。

私ちゃんのにこにこ読書日記『悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集』

 先日ほしい物リストを公開したところ本を2冊頂いた。ありがとうございます。1冊は『三体』、もう1冊は『悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集』だ。今回は後者についてちょっとした感想のようなものを書きたい。

 私の読書はバルザックの『ゴリオ爺さん』から始まった。国語便覧に載っているから、タイトルは知っていたけれど、真っ当な人生を歩んでいたらきっと読むことはなかっただろう。ここから長い回想を始めようと思ったけれど、タイトルの「にこにこ」要素が消滅しそうだからやめる。『ゴリオ爺さん』を読み終えて、作品への感想を抱くよりも先に、「歴史に残る名作を読んだぞー!」という達成感に包まれて、それから有名な文学(とは言っても主に小説)を読む機会が増えていった。ある時、私が知っている有名な文学は列強とか大国とか、とにかくそんな感じの呼び方をされている国のものばかりであることに気が付き、他の国々の文学の存在が気になった。ネットで調べたところ、ラテンアメリカ文学は日本でも人気があり、中でも『百年の孤独』という作品の評価が高いということを知った。『百年の孤独』は単行本だから価格が高い(先週某ショッピングサイトの500円offクーポンの期限が切れそうだったから、それを使って買ってしまったが)。そういうわけでまずは文庫化されている同作者の『予告された殺人の記録』を読んでみたが、おもしろくなかった。すごい作品だというのは認めるが、私の好みではなかった。でもこの作品一つでラテンアメリカ文学そのものがおもしろくないと思うのは間違っているから、別の作者の作品を読むことにした。コルタサルの『南部高速道路』がおもしろいという情報を得たので、いつか読むぞと思ってはいたものの、なんとなく読まないままのような気がしていたので、こうしてプレゼントしていただけたのは、ありがたいことこの上ない。

 前置きが長くなった。

 この短編集には10の作品が収録されている。その中で私が読めたのは「続いている公園」、「南部高速道路」。途中まではいいじゃん!と思いながら読んでいたけれど、最後になんでそこで話をぶん投げた?と思ったのが「パリにいる若い女性に宛てた手紙」「占拠された屋敷」、「夜、あおむけにされて」、「ジョン・ハウエルへの指示」。残りの4作品はさっぱり理解できなかった。言い訳をすると、長いこと睡眠不足なので頭がいつも以上に働かず、文章を文字の羅列としか認識できなかったし、脳内のうるささを超越した集中(これ、合法覚醒剤をキメても興味ないことには絶対に発揮できないんだよな)を読書に傾けることができなかった。だから調子のいい時に読んだなら、もう少しマシな感想が出てきたのかもしれない。

 「続いている公園」は2ページしかなかったので頑張らなくても読めた。内容は「彼」が読んでいる本の登場人物が殺人を企てているのだが、その殺そうとしている人物はどうも「彼」らしい……という、どこかで読んだことがありそうなものだ。作品内の現実と、本という作られた世界との混ざり合いを、私はシルバニアファミリーを上から覗くかの如く、それをフィクションと理解しながら読んだけれど、私だってもしかしたら本の中の人間かもしれなくて、今も誰かが私がキーボードを叩く行為を物語の一部として読んでいるし、さらにそれを見下ろす形で読んでいる人がいるかもしれない。そんなわけないだろ。こんなつまらない物語があってたまるか。

 「南部高速道路」はクソデカ交通渋滞に巻き込まれた人々の話。渋滞に巻き込まれたのは夏の話なんだけれど、いつの間にか雪が降る季節になっていたからテキトーに読み流していたら驚いた。長い渋滞だから、食料はないし、体調は悪くなる。だから他の車に乗っている人たちとグループを作って協力しながら渋滞の解消を待つ。最後には長かった高速道路上での生活に突然の終わりが訪れて、車は前進する。でも、いつの間にか日常になっていた高速道路での仲間との暮らしが明日も続くような、そんな気がして物語は幕を閉じる。私は小5の夏休みに山の中で1週間キャンプする行事に参加したことがある。通っている学校も、学年も違うから最初はうまくやっていけるのか不安だったし、初日は「なんでこんな行事に参加しちゃったんだ、家に帰りたい」と思っていたけれど、徐々にグループのメンバーと打ち解けて、1週間が本当にあっという間に感じられた。〇日にキャンプが終わるということは分かっていたにも関わらず、もう二度とこの子たちと一緒に川で泳ぐこともないし、一緒に食事することもないし、それどころか会うこともなくて、山を下りたら出会う前の他人に戻るんだなと悲しくなったし、受け入れ難かった。分かっていてもこう思うんだから、突然の終わりを迎えた高速道路生活者の気持ちの混乱はもっと大きかったのだろう。

 その他の作品については本の最後に掲載されている解説を読んだが、やはり理解できなかった。「占拠された屋敷」について解説では「あの兄妹は近親相関的な関係にある」というようなことを言っていたが、どうしたらそのような読み方を身に着けることができるのだろう。読者の数だけ正しい解釈があるというのが否定されているからには、ある程度正しさの方向は決まっているはずなのだけれど、私の貧しい読み方をどう磨いていけばいいのだろう。

 コルタサルはポーの影響を受けて詩作を始めたらしいのだが、私はポーの小説を一通り読んでもおもしろいと思えるものがなかったので、もしかしたらコルタサルもそうなのかもしれない。だからと言って私の読解力不足を認めないわけにはいかないのだが。

私ちゃんのにこにこ読書日記『三体』

 先日、VTuberデビューして囲いのオタクが出来た暁にbioに載せるAmazonほしい物リストを一足(一足どころではないが)先にツイートにリンクを貼る形で公開した。そうしたところ、なんと、ありがたいことに、ほしい物リストに入れていた本を親切な方にプレゼントしてもらった。そういうわけで、いつもなら本を読んでも「おもしろかった!w」で済ませてしまうが、今回はちょっとした感想のようなものを残すことにした。

 中国の大人気SF小説『三体』を読んだ。私はこの手の小説への関心は薄く、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』とThe Worlds of Robert F. Young: 16 Classic Science Fiction Stories(イタリック体がないから斜体で許して)しか読んだことがなかった。でも、とてもおもしろいと評判なので気になっていた。

 文化大革命で父親を殺された天体物理学者の葉文潔――彼女もまた反革命罪に問われていた――が謎の軍事施設にその専門知識を求められ連れてこられた。その数十年後、ナノマテリアルの研究者である汪淼は高名な科学者が相次いで自殺していることを知らされ、その背景を探るために<科学フロンティア>という世界的に大きな影響のある学術組織に潜入する。その結果、彼は科学的にあり得ない恐ろしい現象を目の当たりにすることになった。

 この作品の導入部分を簡単にまとめるとこんな感じだろうか。読むにあたって物理の知識があるに越したことはないが、知らなくても本筋を捉えることはできると思う。<三体>は三部作なので、二作目以降も読んでみないことには、はっきりとしたことは言えないが、少なくともこの一作目に関しては、私はミステリーだと思って読んだ。物理のことは何にも分からないに等しいけれど、人の不可解な死には興味があるから、その真相を知りたくて読み進めた。読んでいると「ここおかしくね?」と言いたくなる箇所もあるのだが、それは私が物理学について無知だからそう感じるだけで、実際には何もおかしくないのだろうと思うことにした。

 『三体』はいい小説だ。最初はかったるい話だと思っていたが、「人の不審な死」という要素が加わったら続きが気になって、すいすいと読み進められた。やっぱりこの要素があるとないとでは物語の輝きが違う気がする。「人が死ぬと嬉しい」なんて、とんでもない厨二発言だとは思うが、そう思うのだから仕方がない。もちろん現実での人の死は嬉しくないし、そういうニュースに触れると悲しさとか恐怖とかでいっぱいになる。本物の厨二は現実の人の死も嬉しいのだろうか。

 人が死ぬことだけがこの作品のよさではない。多数派ではないかもしれないけれど、人類社会に絶望している人は確実にいる。そういう人たちを作品内で描いたのは、すごいと思う。作者はおもしろいSF小説を書きたいという気持ちだけで『三体』を書いたのであり、その裏には世の中を批判しようとか愚かな人々を啓蒙してやろうとか、そういう気持ちは一切ないのだろう。でも、「そういう人たち」の存在を掬い上げたのは、これからも人間が生き続けていくために必要な視点を結果として人々に与えたことになるのではないか。

 <三体>において、人類がどのような選択をし、どのような結末を迎えるのか気になるので、二作目も読みたい。

たすけて

 ここ数ヶ月、指がなくなることを考えてしまう。痛いことが大嫌いの私は身体の欠損など怖くて仕方がない。なぜここ数ヶ月その考えを起こして苦しんでいるのかは分からないが、恐怖の明確な根源はわかる。
 指が1本ない人と握手をしたことがある。握手をするまでその人の指が足りないことに気づかなかった。握られた手の温もり、あるべき場所に感じられなかったそれを認識したときのえも言われぬ恐怖を忘れられない。怖くてちらりとしか見られなかったが、恐らく切断したのだろう。それ以来「切断」という言葉を思うと自分がバラバラになるのを感じる。大学で「デデキント切断」を習ったときなんか教室で吐きそうになった。私がラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』や谷崎潤一郎の『細雪』を名著だと知りながら二度と読まないのは、身体の一部が切断された人が出てくるからだ。それくらい私の恐怖は徹底している。
 今日は中学生の頃、車のドアに傘を挟めたことを思い出した。ドアが閉まらないなと思っていたら、傘が挟まっていた。傘の先端は金属なのにぐにゃりと曲がっていた。もしあれが傘の先端ではなく、自分の指だったらと思うと、怖くて怖いなんて言葉じゃ足りないほど怖くなってしまった(なんとも頭の悪そうな表現だが)。
 毎日のように自分の指が手足に20本しっかりあるのか不安になってまじまじと眺めてしまう。眺めれば眺めるほど不安になり、もし何かあって指を失ってしまったらと考えては震えてしまう。指からどんどん規模が拡大して、欠損の対象が手になり、腕になる。どこかで聞いたが、事故の報道では、身体の一部を切断する結果になっても生きてさえいれば「命に別状はない」と言うらしい。怖い。怖すぎる。いっそのこと殺してくれ。身体の一部を欠損したまま生きたくなんてない。いや、五体満足の今でさえ十分死にたいんだけれど。 
 こんな考えてもどうしようもないことで頭を支配されて、1日を無為に終えてしまう。身体の欠損への恐怖は誰しもあるものだと思う。でも指がなくなることについてこんなに毎日真剣に怖がっているのは、私くらいのものではないか。この逃れられない恐怖からどうすれば解放されるのだろう。死!死しかないのか?